ヨコハマ想い
「蓮の花の精神で
」
デザイナー 早園 マキさん
profile
1972年横浜生まれ。横濱スカーフのシルクスクリーン製版型を作る職人の家庭で育つ。日本ファッション学院卒業後、職人として家業を手伝いながらモデルとしてコレクションや雑誌、TVCFなどで活躍。パリコレクションにも参加。それを機に、自身がデザイナーを務めるブランド「ROUROU」を立ち上げる。20通り以上に着回せる「横浜マルチスカーフ」は第2回神奈川なでしこブランドに認定、2016年「おもてなしセレクション」受賞。
両親が横濱スカーフのシルクスクリーン製版型制作の会社を経営していました。デザイナーが描いたものをトレースし、シルクスクリーンにして納めるという仕事です。父が経営者、母が職人。母は先生として、周りの職人たちに教えていました。そういう環境で育ったので、自然と洋服に興味を持ち、スタイリストを目指して服飾の専門学校に進学しました。学校でモデルをやらせてもらう機会があり、それが面白くて。「モデルは若い時期にしかできない」とチャレンジしましたが、雑誌の専属モデルに応募しては落ち、応募しては落ち、の繰り返し。専門学校を卒業し、両親の会社を手伝いながらモデル養成学校に通いました。
モデルとしての初仕事は、デザイナー津村耕佑さんのファッションショー。そのとき、ショーモデルを探されていたデザイナー山本耀司さんの目に留まり、7~8回オーディションを受けて合格、パリコレクションに連れて行ってもらいました。小柄で、超ジャパニーズなモデルを探されていたそうです(笑)。
しばらくはモデルをやりながら家業を手伝う毎日でした。そんなとき、小学校からの同級生が、シルクスクリーンの仕事に興味を持って、家にアルバイトに来ることになりました。それまではあまり話したことがなかったのですが、じっくり話してみたら意気投合。「自分で何かを始めたい」という夢が一致したのです。彼はシンガポールで育った経験を生かしてアジア的なもの、日本的なものを発信したかった。私は、耀司さんのパリコレに参加させてもらったときに、憧れだったヨーロッパで賞賛を受け、初めて日本のものってかっこいい、と日本人であることを誇りに思い、それを自分で発信したかった。「作るよりは自分でデザインして売ることができたらいいよね」と父に言われて育ったことも手伝って、自身のブランド「ROUROU」を立ち上げたのです。意気投合した彼は今、ROUROUの社長であり、主人でもあります。
アジアとヨーロッパが融合したような、アジアのどこかにある朧朧国。そこに争いはなく、精神的にも進化している理想郷…その誰も知らない国から商品をインポートするというコンセプトでROUROUは生まれました。
何もかも未経験だった私たちは、いろいろなところで修業をさせていただき、私は見様見真似でデザインを描いていきました。6年間の準備期間を経て2000年、横浜中華街にお店をオープン(中区山下町130 ☎045-662-0466)。混沌とした所に、スッと蓮の花が咲いているような感じのお店を開く。中華街はまさに理想の場所でした。
今でこそ東京ガールズコレクションなどのショーは一般の方でも見ることができますが、当時、関係者以外は見ることができませんでした。だったらみんなが見られるショーをやろうとか、原宿や代官山、上海にも出店するとか、NHKドラマ「上海タイフーン」(2008年)の脚本や衣装、演出にも携わらせていただきました。スタートから16年、様々なことにチャレンジしてきましたが、今は原点に戻り、中華街1店舗のみ。もっとROUROUのコンセプトを突き詰めたい。衣食住、トータルで展開していきたいと思っています。また、日本の産地にこだわって丁寧なものづくりを心掛けています。たとえば、刺繍は桐生、捺染プリントは横浜、デニムは岡山など、日本の良いものを発信し、伝統を守るお手伝いができればうれしいです。
横浜は港町。ファッションでも何でも、外国から受け入れてきた街です。そういう懐の広さや柔軟さを保ちつつ、プライドも持ち合わせる横浜の人って素敵だな、と思います。私にとって横浜は、家族との温かい思い出がたくさん詰まった大切な場所。この場所でずっと発信していきたい。蓮の花って、泥沼にあっても泥に染まらず、美しく咲いて、沼の水を浄化して、必要なくなったら散っていくという素晴らしい花なんですよ。私も蓮の花のように、染まらず、人に優しく接していきたい。ROUROUの服を着る人が優しく、元気になってくれたら、という思いでこれからも作り続けたい。楽しい、かわいいというワクワクを伝えていかないと。